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マゴスへのメッセージ  第1回 「庭と生きる。」 映画作家 大林宣彦
Chapter2
これからの時代は「人間がどれだけ自然に戻っていけるか」が重要。
社長: "まちのこし"という言葉がでましたが、街並みというのは、家や庭が連続してなるものとも言えますから、ひとつひとつの家や庭の果たす役割は重要だと思います。そういう意味で、素敵な庭の提案は、ぼくたちの仕事の大切な部分であると考えていますが、監督の想う庭とはどうあるべきだと想いますか?

監督: 僕の友人が、単身赴任先で小さな庭を持ったそうなんです。そうするとまぁ、今までやったこともない庭の雑草を刈ったり、草花の手入れをしなくてはいけない。で、2週間に一遍、庭の手入れをし始めたんだそうですよ。
そのうちに、はっと気がついたことがあってね。
庭の草花が、2週間のライフサイクルに変わっちゃったんだってね。2週間に一遍、ハサミを入れられると知ってから、2週間の間に一生懸命生きようと変わってきたことに、友人は何ヶ月かたって気がついたんですよ。
なかなかこれは、はっとする話だなと思いましたよ。
僕たちから見れば、自然の草っていうのは勝手にはえて、終わっちゃったりするわけだけども、彼らも1つの命であってね。2週間先には命が絶たれるんだと思うと、その間に一生をちゃんと生きようとするんだよね。だから、それくらい僕たちの行いは、自然界の何かと必ず深い係わり合いを持っている。そういう意味で言えば、すぐ隣に生えている木や花や草は、お互いが影響しあいながら、みんな生きてますよ。
つまり、そういった循環の輪の中に、人間としてどう入れるかってことが、今一番問われなきゃいけない、人間が忘れていたテーマだと思いますよ。人間は今、自然界の強者かもしれないけども、そう思うのは間違いですよね。

僕が若いころ、つまり20世紀の始めのころはね、"自然は芸術を模倣する"という言葉がありました。芸術を志す若者にとっては、大変重要な言葉で、なるほどそうだなぁと思いました。芸術とは、人間が知恵や工夫を働かせて、技を磨いて創る美しいものでね。そこいくと、"自然とはただそこにあるだけじゃないか、自然は人間の芸術を模倣してるんだ、人間とはいかに偉大なものであるか"と。これは、僕たち若いころの、20世紀の少年の1つの誇りだったですよ。
そんなことがあってね、僕が芸術家になるってときは、「オレのすばらしい芸術を自然は模倣してるぞ」と、思っていたわけだけど、今にして思えば、それはなんておごった、傲慢な考えであったかと思いますよ。

例えば、子育て1つにしても、自然界の生き物っていえば子育てこそ命みたいに、卵産んだら死んじゃうとか、餌になっちゃうとか、つまり、循環の輪の中で子どもを産み育てるんです。種の保存・種の繁栄は、自然界の摂理であって、そういうあらゆる生き物が生きている中で、人間だけがそうじゃなくなってきている。どうして、そんなことになったんだろうと。
やっぱり、"自然は芸術を模倣する"という考えが、あらゆる人間界にはびこっていたんだと思いますね。アリンコ1匹を見ても、庭の草や小さな花1つを見ても、人間よりはるかに自然に種の保存・種の繁栄、子育てをやっているわけでしょう?
僕はね、今こそ21世紀のテーゼはね、"芸術は自然を模倣する"ことだと。コレでなきゃならないと思っているんです。もし今、自然が人間の芸術を模倣したら、自然界は滅びますよ。

人間の芸術、映画の世界で言うと、まぁ特にこの30〜40年は、殺戮や破壊が映画芸術の中心になっていてね。2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件の映像は、もしもアメリカ映画の一場面だったら、大ヒットしたでしょうね。あの、ニューヨーク・マンハッタンの高層ビル群っていうのは、ラブロマンスの名舞台だし、キングコングも登ったしね。映画の名舞台、文明の象徴ですよ。言わば、人間の栄光の象徴ですよね。そこに、武器が突っ込んで、人が死に、物が壊れていく。映画の一場面だったら、映画を作った人間は拍手されて、アカデミー賞をもらうかもしれないし、 富と栄誉が一遍にやってくる。そういうパワーがあるの。
さらに言えば、魅力のある映像だからこそ、テロリストたちは映画の夢を盗んで、彼らの宣伝にしたわけですよね。
そう考えると、人間が作ってきた芸術というのは、自然界の一種とは全く逆のところ、つまり、商売なんだということですよ。

例えばジョージ・ルーカスはね、"スターウォーズ"を最初9作品として始めたんだけど、6作品でやめますよね。あと3作品作れば、彼はもう生涯、左団扇で暮らせるだろうけども、彼はきっと、こう考えたんだと思う。
10年前に"スターウォーズ"を始めたときに、選択肢は2つあったんですよ。"スターピース"と"スターウォーズ"。でも、なんの逡巡もなく、"スターウォーズ"を作っちゃったんだと思うね。 "スターピース"では大ヒットしない、地味ですから。"スターウォーズ"だからヒットする。もし、30年前に"スターピース"を作っていたら、テロという政治的事件はあっても、ああいう映像が実現するということは、決してありえなかった。それと同時に、そのころ生まれたアメリカ映画も、とにかく相手をやっつけろっていう、戦意高揚映画ですよね。「なんだ俺たちの映画は、戦争の見本を作ってきただけか」と。
としてくると、我々の誇り高き映画は、結局「戦争の見本ばかりを作ってここまできたんだな」と。2001年9月11日のあの映像は、20世紀、我々が望んだ映像の集大成で、そう考えると、あれはテロリストが起こしたんじゃなくて、我々が起こした事件なんだと思いますよね。映画芸術が、あの映像を生んだと、やっぱり僕たちは考えざるを得ない。

そうするとやっぱりね、自然が芸術を模倣してたら、自然はもう瀕死で大変なことになりますよ。だからやっぱり、"スターピース"なことを、僕たちはやらなきゃならないですね。その観点は、"芸術は自然を模倣する"ということ。 そう考えれば、子育ても自然を模倣し、庭つくりも自然を模倣することであると。つまり、自然界の摂理に、どれだけ我々が戻っていけるかということです。

さっきおっしゃった"懐かしい"という気持ちが、実はどこから来るかというとね。自然の姿の中に入ったときに、一番僕たちはほっとするんですよ。
庭というのは、やっぱり僕たちが自然界と親しむための、1つの入り口であるわけですから、まず、そこに自然がなきゃならないということを考えたときに、さっきの友人は、もう草を刈るのはやめようと思ったそうですよ。
むしろ、「この自然の花はいつ咲いて、いつ枯れて、いつ芽生えてくるのかを観察して、自然界の摂理に合わせてハサミを入れさせてもらおう。勝手に自分の休日で、2週間に一遍と決めたために、自然界はおかしくなっちゃってる」と。まさに、自然は、彼の庭いじりという芸術を模倣したために、自然界の生態系がおかしくなっちゃったわけでしょ。
だから、これからの庭は、いかに自然の意思を大事にするかってことを学ぶ場所でしょう。庭に行けば花も咲いてるし、きれいでしょうけど、実はそこにはアリもいるわけです。アリンコ一匹踏み潰すようなヤツは、庭をつくる資格はない。今、人間界のほかにも、 いろんな論理が、ずいぶん自然界から離れていってると思う。人間が一番幸せってことは、自然界の摂理に従ってるということですからね。

だから、そう考えてみるとね、人間っていうのは、本当に恐ろしい生き物にもなってるなと。他の生き物は、みんな本能というもので生きてる。僕たちは、本能というと馬鹿にするけども、彼らは本能で、種の保存・種の繁栄を行っているわけでしょ。
ただ、人類だけは自然界から許されて、その本能を言葉に変えて、考えてみるという生活習慣を与えられたんですよね。それを考えることでいい方向に活かしていけば、自然界の意思にそった、よい生き物になるんだけど、間違った方向で使っちゃうと自然界を滅ぼしますよね。だから、そういう意味では、人間ってのは、神か仏か自然界が生み出した、1つの試金石ですよ。
どうも、この100年おかしくなっちゃてるね。このままいくと、人類は滅びますよね、間違いなく。

そういうときに、庭とは何かってことを考えると、自然の知恵を借りて、人間が学ぶために庭はあるんだと。そういうところから始めなければ、大変なことになると、僕は思いますね。


大林宣彦 おおばやしのぶひこ
1938年、広島県尾道市生れ。自主製作映画、CMディレクターを経て映画作家へ。
『転校生』('82) 『時をかける少女』('83) 『さびしんぼう』('85)の《尾道三部作》から、若い人たちに圧倒的な人気を博した。続く『ふたり』('91) 『あした』('95) 『あの、夏の日』('99)の《新・尾道三部作》、小樽を舞台にした『はるか、ノスタルジィ』('93)など、小さな町を舞台に多くの作品を発表している。『異人たちとの夏』('88)で毎日映画コンクール監督賞、『青春デンデケデケデケ』('92)で日本映画批評家大賞、芸術選奨賞文部大臣賞、『SADA』('98)でベルリン映画祭国際批評家連盟賞など、数多く受賞。
また、講演会や著書などを通じて語られる言葉は、日本を愛する心だけでなく、鋭い文明批評も含まれ、各分野で注目されている。

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